ニューヨーク異業種交流会は、NYで頑張る日本人を応援したい、NY日系コミュニティーの橋渡しをしたいとの思いをこめて2002年に 発足いたしました。 2001年に起きた9.11同時多発テロがきっかけです。
 頑張る日本人を応援したいという強い気持ちから翌2002年にフリーパーペー「アメリカン★ドリーム」 を発刊し、 その後異業種交流会の開催へと活動を広げていきました。
 交流会は皆様の口コミなどで参加者が徐々に増え、今や 8000名以上のメーリングリストになるほど成長しました。
 性別や世代、地域、職種を越え、まさに異文化の融合が創り出した 珠玉 の ネットワークと自負しております。 時代を支えるリーダーと次代を担う人々が、調和しながら交歓しあえる刺激的な場になれば幸甚です。
 今後ますます内容を充実させていきたいと考えております。ご意見、ご要望など、皆様のお声をどうぞお聞かせください。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。


NY異業種交流会100回記念

 NY異業種交流会は、NYで頑張る日本人を応援したいとの思いをこめて2002年に発足いたしました。2001年に起きた9.11同時多発テロがきっかけです。まずはフリーぺーパー「アメリカン★ドリーム」を発刊し、 その後異業種交流会の開催へと活動を広げていきました。交流会はクチコミなどで参加者が徐々に増え、8000名以上のメーリングリストになるほど成長しました。NYにはたくさんの日本人が暮らしてますが、なかなか知り合うチャンスは少ないものです。特に異業種の人となると出会う機会は皆無といってもいいでしょう。こうした「出会いの壁」を取り払う場として、そして有事のときに助け合える会としたいと思っています。性別や世代、地域、職種を越え、まさに異文化の融合が創り出した珠玉のネットワークと自負しております。 NYの日系社会は長らく大手企業の駐在員が中心に構成されていました。そのために、NYにはNY商工会議所、ご年配者が中心の日系人会の団体がすでに100年以上の歴史を持って存在しています。しかしここ数年、特にテロ以降NYの日本人の構図も変わってきました。

  NYには、日本を飛び出して、どこにも所属せず、自力で起業したり、フリーランスで活動している日本人が増えています。それにも関わらず、当時テロに関する日本での報道は、日本企業の駐在員の消息に関することだけでした。私たち、ここで根をおろして必死で頑張っている日本人についての報道はほとんどありませんでした。そのニューカマーである日本人たちには、アイデンティティがまだ確立されていない。日系人でもなければ、いつかは帰国する企業の駐在員でもない。かといって完全なアメリカ人でもない。ある意味では華僑やユダヤ人に似ているのかもしれません。そんなNY在住日本人の守られていない部分を守る組織を築きたいという思いが生まれました。
  07年には、民間では初となる、在NY日本国総領事館大使公邸での異業種交流会を行いました。毎月、各界から著名なゲストスピーカーも集まっています。月例交流会以外にも、会員の相互の親睦のために起業、経営、健康など、各種セミナーやスポーツやアートイベントなども行ってまいりました。

  私自身も気がつけば今年で在米31年になります。まさかこんなに長くなるとは思いませんでした。日本では落ちこぼれのレッテルを貼られた不良少年だった私は、高校卒業後、バイク急便で留学費を貯めてアメリカに渡りました。成り上がりを目指して、とにかく大学時代は勉強しました。大学卒業後は、サウスカロライナの田舎から、大志を抱いて、ニューヨークに渡ったのです。ニューヨークでは出版社へ就職しましたが、希望の編集職にはつけず、元気がいいという理由で、広告営業部へ配属されました。「やるからには一番になって見せるぞ」と希望の職には就けなかったが、寝てもさめても営業のことだけを考えていました。その1年後、1995年というのは、アメリカでは俗に言うインターネットベンチャー草創期。こんな時代はもうこないだろうという世の中の気運もあり、この年にNYで起業しました。若さに任せ、勢いと気合だけでビジネスを推し進めたのです。ネットバブルの追い風に乗り、最年少上場を目指し巨額の投資を集め、事業は順調に進み、俄かミリオネアを味わいました。しかし、ネットバブルは崩壊、そして忌まわしいNYを襲った同時多発テロに止めを刺され夢は終わりました。巨額の借金を抱えて、従業員も信用も失い、何よりも自分自身である自信を失いました。生きている意味を感じなくなりました。今だから言える事ですが、テロ後まもない頃、ソーホーに構えていた事務所の家賃が払えずにいました。この頃は鬱もあり、寝つきは悪いが一度寝ると朝なかなか目覚めることができませんでした。そんな日々が続いていたある朝、社員から一本の電話がきました。「社長、マーシャル(保安官)が来て今すぐ、事務所を立ち退けと言われています」。
  マーシャルたちは有無を言わせぬ態度で、家賃未納を理由に事務所の鍵を取り付けなおし、当時10数名いた社員達は強制退去させられてしまいました。かろうじて機転を利かせた社員が会社のデータのバックアップCDを持って出ました。
  一時間後、私は社員達と会社の下のコーヒーショップで落ち合ったのです。社員達の眼差しが私を軽蔑しているように感じて痛かったのを覚えています。「これから、どうするんですか」。社員たちに詰め寄られ、情けないやら悔しいやらで涙すらでませんでした。頭の中は真っ白で、どうしたらいいかなど考えられないのです。数日間はビジネスホームレス状態。しかし、なんとかなけ無しの金でワンルームのアパートを借りることができました。ただ、奇跡的に保護したデータのバックアップCDは、追い出されたその日にコーヒーショップで置き引きにあうという不幸が重なり、この異業種交流会の十数回の写真など、過去の資料がすべてなくなってしまいました。
  この時に強く感じたのは、自分の立場が駐在員や、大手企業、留学生とは大きく違うということでした。そんな失意のさなか、とても人を応援できる立場ではない私が、何故か9.11をきっかけにNY異業種交流会を開催するようになりました。冗談ではなく、このNY異業種交流会は毎回私の送別会だと思って続けていました。

  矛盾しているようですが「頑張る日本人を応援する」という名目で始めた交流会が逆に私を支えていたように思います。毎日のように夜逃げを考えていた私は、交流会の度に「今回が自分のお別れ会だ」と思って続けていました。それが今回で100回を数えます。まさに奇跡です。
  異国の地でこのような会をコンスタントに継続するのは大変でした。爆弾事件、大雪などの天災や事故などで人の出足が極端に減ることもあります。開催する側の私自身も、大事な存在と死別し、涙で目を腫らしサングラスをかけて参加した時もありました。それでも何があろうと一度も欠かさずに毎月開催することを続けてきたのです。ゴールが何かを描いたわけではなく、続けていけば必ず何かが見えるだろうという思いが私を動かしていました。
  私だけではなく、ほとんどのニューヨーカー達はあの日を境に人生を転換させられたに違いありません。皆それぞれの心の行く先を模索し、何かをつかんでいった。やっていることに不安を持たずに、自分を信じて、先に何があるかは分からないが、ただ無心に今のことを続けることの意外な大切さは、私がつかんだことです。
  現在は、日米を往復しながら東京においても定期的に交流会を行っています。現在まで78回続けています。
  あの時の私と今とは何が違うか。それはたくさんの仲間がいることです。この交流会も50数回は孤軍奮闘で切り盛りして頑張っていました。しかし、信用できる仲間が増えて今ではこのような会館を持てるようなりました。実はこの会館設立も4年前から計画をしていたのです。しかし、周りからの賛同を得られずに計画は流れていました。今回も会館設立基金を集めている矢先に東日本大震災が起こり、東北への復興支援に奮闘し、会館設立を断念しなくてはならないのかと思う状況になりました。しかし仲間の支えがあり、徐々に会館設立資金が集まり、このようにマンハッタンのど真ん中に会館を構えられるようになったのです。ここまで、たくさんの方の支援がありました。返しきれないほどの恩があります。そしてこの10年間頑張ってこれた。今まで支えてくれた人たちの為にも、これからの世代に力強くバトンを渡せるよう頑張っていきたいです。「頑張る人を応援する」をスローガンにこの会が100年、200年と続くようにしっかりとした礎を作っていきたいと思っております。今後ともよろしくお願いいたします。


 
板越ジョージ
Global Labo, Inc. CEO

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